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常にクリエイターでいたいがアーティスト傾向が高い人間の考えまとめ。自分が読み返して、面白かったりタメになったりしていますように

『外ではマスク不要』

自分は外ではマスクを着けないようにしている。

政府も「外ではマスク不要」と言ってるのに、外ではほとんど着けている人が多い。「外ではマスク不要」なんていう公式な声が叫ばれてマスク外し率が1%増えたぐらいか?

 

大体一年半ぐらい前から、自分は「外では人と近距離にならない限りマスク不要」と、その情報元をたまに確認しては、密にならない限り外でマスクを着けないやり方をしている。

 

今日なんか「密でも人と会話しない限り外ではマスク不要」と岸田総理が叫んでいたのを知る。

去年の12月愛知に行った時は外でマスクしてたが、あの時は人との距離が密だったからしていた。

もし今年旅行に行く事があれば、「密でも人と会話しない限り外ではマスク不要」と言う情報を再度確認して、俺は北海道でマスクなしで外を歩くのだろうか?

 

今の自分は日本での外でのマスク外し事情より、自分の家族のマスクの在り方が気になる。

「外ではマスク不要」と家族も情報を知ってるが、外でもマスクを着けている。

俺がそれを問いかけると「周りの目が気になるから・・・」と言う。

 

「外でマスクを外してる時変に思われる事がある」そうだが、どうやら俺はその点に関しては鈍感な方かもしれない。今のところだが気にした事ない。

大体俺も店内でマスクを外してる人を見た時、白い目で見てる部分もあるし正直外でもそうかもしれない。(逆に讃えているかもしれないが)

お互い様だし、しょうがない。

 

でもそれは奄美大島と言う田舎の場所での事。

奄美大島には固有の狭い世界観があるが、俺が本土に出た時どうなるんだろう?

 

しかし『自分の意見は本当は違くても、周りが白い目で見るからそれに合わせる。意見を言う』は結局

固定観念の無駄な縛り付けや狭い世間を作っている一つになる事を、自分にも戒めを込めた方がいいのは間違いない。

家族とかでなくもし「マスクは外で不要」と分かっても「マスクを外で着ける」ようににやってたらそれは固定観念の無駄な縛り付けや狭い世間を作っている事に過ぎない。

 

『「マスクは外で不要」と分かっても「マスクを外で着ける」』をやるだけで無意識でも周りに圧力をかける事になるからだ。

もちろんそれはマスクに限らない。実際は外でもマスクが必要なら、情報元を確認した上で外でもマスクを着ける。しかし他の事ならどうだ? 情報元を確認するように考えを確認して、おかしいと感じたとしても周りと同調してるなら狭い世界を作っている一人に過ぎない。(どんな事情があろうと)

 

だから心がよく折れる自分だが、それでも少しでも「マスクは外で不要」情報が正しい限り、『マスクを外で着けている』とは正反対な事をして考えを変えさせる声の一つになりたい。

 

マスクと言う範囲を超えたら、そんな変わる世間に合わせて『自分は正確な考えだ』と言ったり思うより、ちゃんと考えを確立させた方が正しい。