『誰も傷付かない』 と言うのは厳密にはない。
『誰も傷付かない』
と言うのは、厳密にはありません。
例えば誰かが『今日も一日良い日でありますように』と、他意のない善意で別の人に送ったとします。
別の人はそれで今日一日に希望を持つが、その後何か悪い事が起こりました。
その人はその言葉を貰って勇気が出た分その落差が嫌になって、自殺をしたと言うのはありえるかもしれないからです。
私自身はそうやって『今日も一日良い日でありますように』とは言えないのですが、それこそ他意のない善意で人に希望を持たせて、その落差で落ち込ませてしまった事があります。
また別の例を出すと、
”おやすみなさい。
今日もみんなと触れ合えて楽しかったです。”
と言葉を書いても、今日一日が今日も楽しくない人にとっては、一部不快な内容にもなるし、自分はそうでなかったと落ち込む可能性もあります。
『誰も傷付かない』と言うのは、一種の幻想でありその言葉を良く使う人はもしかすると、それを念頭に置いても良いかもしれません。
それに”あ”とだけ書いたら、『”あ”っとは何だ!?』と怒る人もいるはずなので、無限大に人がいる世界ではそれがあってもおかしくはないはずです。
ですので自分が表現する時は、人が傷付くのを恐れていたら何も書けないと言うのがあります。
しかしそんな神経質に考えずに、『誰も傷付かない』と言うのを考えるべきと言うのもあります。
例えば有名人の自殺の推測を、特に多くの人を巻き込んで過剰にやった場合、ファンであったり有名人の事務所であったりなど、余分に人が傷付く可能性が高いです。
『誰も傷付かない』と言うのは、なるべく多くの人が傷付かないと言う予防線で、せめてもの配慮ともなります。
ちなみに私の場合、岡村隆史のラジオでの発言への批判について思う事があるが、言いたいのを我慢しています。
なぜなら岡村隆史自身が猛省していると言っているし、それを書けばこう言った一個人のブログでも岡村隆史自身がぶり返して、気にしてしまうかもしれないからです。
しかしそれこそ、その騒動があった頃にラジオでの発言への批判について思う事を書くのはそれがエゴであっても自分にとっての表現の自由になります、日本ではそれは正式に認められているが、匙加減と人の規制と許容についてもよく考えてもいます。
言いたい事を言わないと世の中の誰にも分かってもらえません。