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常にクリエイターでいたいがアーティスト傾向が高い人間の考えまとめ。自分が読み返して、面白かったりタメになったりしていますように

審査側と出したい側のコンテスト観

R-1ぐらんぷりの3回戦に出た芸人が、観客や他の芸人共にかなり大絶賛されたのに、審査に落ちた事に苦言した話が最近あった。 

またM-1グランプリで優勝した芸人が、今回のM-1グランプリでの一人の審査員に対して批判をした事があった。

その共通して言った事は、主観やバイアスか入り過ぎているんじゃないか?と言った内容。

公平に審査されたら納得するけど、そうじゃないからどうなんだと言う訳である。

が、公平に審査されたいと言うより、その人に見てもらいたいと言う気持ちが強いと言う、一定の層はいるわけである。


M-1グランプリに出場した上とは別の芸人は、あの人がもう審査員として出なかったら誰に怒られればいいんだ?と言う。

実際、お笑いに限らず色んなコンテストの通知には、○○さんが審査員として出ますよと宣伝みたいに使われる。

それはどんな本格的なコンテストか?と言うアピールや、また応募したい側にこの人に見てもらえるんですよと言う誘いもやっているわけである。


その審査員達の「この応募作品、私は好きですね。僕は好きじゃないです」の声を時折聞くと私達は「あっ、やっぱり作品審査は主観が入るんだ」と意識的に思う。


またコンテストの好みに合わせたものを用意するのが、受かるコツらしい。


そうすると、コンテストで受かりたい自分達は「主観が少なからず入る中、気に入ってもらえるかどうか?」気にするわけである。

しかし、その主観もあやふやな所があり、R-1やM-1のような苦言が生まれる。


なお、10数年前の公募雑誌の詩の募集コーナーで、その少ない掲載枠を勝ち取った作品が、審査員自らバカにされた事があった。

なので言ってしまえばコンテストに受かるのも運である。

もちろん主観をなるべく省いて審査するコンテストもあるわけだが、それ探しも運で(純粋に内容を見て欲しい場合)、そうじゃないコンテストだとより、実力がないから選ばれないとは限らない。

なぜならそのバカにされた詩は、実力があると審査されたらバカにされるはずがない。(極端な例かもしれませんが)

当時たった2つか3つ(確か2つ)の僅かな掲載枠に、実力のない詩が掲載された。

今ほんの少しだけコンテストの審査観がぐらついてるわけだが、「これは主観が入ってるコンテストですよ。」「このコンテストは主観を出来うる限り省いて公平に見ますよ。」ときっちり公言して分かれてもいいような気がする。