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常にクリエイターでいたいがアーティスト傾向が高い人間の考えまとめ。自分が読み返して、面白かったりタメになったりしていますように

共感の数と仲間の数と助けてくれる人の数

なんと ゾンビが 起きあがり 仲間になりたそうに こちらを見ている!の写真

「共感とその人を好きになるは違う」みたいに昔聞いた事があるが、確かにそうだなーと感じている。(画像は選定がふざけすぎだなーと思うがまあ記事内容と無関係ではない)

共感からその人を好きになる事はあるが、あくまで好きになるきっかけであって、共感と好きになるは別物であると考えられる。

例え『あなたのしている話、良いですね!』と会話が盛り上がっても、話が良いのであって聞いてる人がその人自身に興味や親しみを覚えている感覚であっても、ちゃんと好きになるかはそれ以降の話だと思う。

 

高校生の頃こんな話がある。学校である問題が起きた時ある先生が授業を中断して授業時間ずっとその問題について、優しくみんなに話した事がある。

その時と直後はみんなその先生に親しみを持っていた感じだったかもしれないが、正直その先生は元々嫌われていた。

またその先生が以降も好感度が上がる事はなく、卒業間近の最後の授業が終わった後その先生が教室から出るとクラスの多くが「いえーーーい!」と嫌っている先生の授業が終わった事を、先生がまだ廊下付近にいるにも関わらず喜んで「残酷だな。」と思った。

 

しかし俺もその先生が嫌いで学校の問題が起きて優しい事を言っても、「ああ。優しい事言うんだな」みたいに思い、俺が嫌う原因となる先生の俺自身への対応の仕方は変わらなかった。

 

その先生の場合は元々前後が嫌われているわけで、上の『あなたのしている話、良いですね!』の場合は赤の他人である場合もかなりある。

またそこからその人を嫌おうが、仲良くなろうが未知数だし、仲良くなっても「共感しているだけ」の表面上の話しと言う可能性もある。

 

「共感とその人を好きになるは違う」の話しをすると、そうやって話しをした人は一見仲間が多いが、自分が困っている本当に助けてくれたのはごく僅かだったと話した。

また別のあるみんなに人気のある人も「俺が困ってるのにあまりみんな助けてくれないし、これから人間関係のやり方変えようかな」とまで言ってきた事がある。

 

しかし『多くの人に共感されても、それは必ずと言っていいほど表面上だけの付き合いになる』話ではあまりない。

同じ様にみんなに人気のある人(この記事では実在のそう言う人が現時点3人いて、AとBとCだとするとこのパートで話すのはCである)は「自分がもう駄目だと思っている時、何度も何度も助けてもらいました」

と話している。

 

じゃあそのみんなに人気があって助けてくれる人の差はなんである?と考えた時、正直自分としては運としか言いようがない。

俺と仲良くしてくれてるって事は、ちゃんとした人間性があるのかもしれないし、実際多くの人がこの人どうなんだと思うような人間性とは思えない。

また困っていたその内容もほとんど具体的には知らない。だから運としか言えない。

 

他にも困っている内容に立ち入る事が出来そうか、出来ないか?(面倒くさくないか?面倒臭いか?に言い換えられるかもしれないが)と思ったがそうでもなさそうだ。

  • みんなに人気のある社員があるプロジェクトで頓挫して困った。しかし経験を積んだり別方向でアプローチ出来る人が協力してくれた。
  • みんなに人気のある社員が失恋した。しかし経験を積んだり同じ悩みで共感してくれた人が励ましてくれた。

これらは確かに立ち入る事の出来そうな人が多いイメージがあるが、だからって必ずしも立ち入ってくれるわけではない。

俺の高校の担任の先生も(さっきの嫌われてる先生ではない)、「自分が失恋した時周りが助けて欲しかったのにあまりそうしてくれなかった」と言っていた。

 

またみんなが立ち入れなさそうな悩みでも、決して立ち入ってくれないとは限らない。

重い話になるが、子供を殺された母親が友達(確か一人ではなく数人)が励ましてくれたから立ち直ったと聞いた事がある。

 

交流を持っている人がちゃんと助けてくれるかどうかは、残念ながら重大なシチュエーションが出てこない限り分からない。

恐らく子供を殺された母親を励ましてくれた友達は、その母親の別のシチュエーションにも「立ち入らないで」って言わない限り立ち入ってくれるだろう。

 

あと「繋がりの薄い仲間より繋がりの濃い親友が数人いればいい」みたいに聞いた事がある。

これで良しすればよいかもしれないが、繋がりが少ないと例えその親友が数人いても、正直自分の世界が狭いような気がしてしまう。 

だからと言って仲間が大勢いれば自分の世界が広く感じられるとは限らない。

 

実際「繋がりの薄い仲間より繋がりの濃い親友が数人いればいい」と言う人は、色んな人と交流を持っているが、ちゃんと仲良しなのは数人だけと語る人が何人もいると思う。

別に人付き合いは希薄にとて、親友が数人いるだけにしとけばいいと言ってる訳でもない。(はずである)

 

ただ俺が出来ることはたまにであっても色んな人に「君のことちゃんと気にかけてますよ」とサインを送る事なんじゃないか?と思う。

とは言え内側にこもりがちな俺は多くの人に実践できてるわけじゃなく、その中で自分からサインを送り、送り返してくれる人が『強い繋がりのある仲間』かもしれない。

そしてその証がお互い消えていないか?残っているか?にもよるのだろう。

 

人はなんかしら交流をする人が流動的に変わるものである。

同級生達と付き合ってたが子供が産まれてから家族と地域住民との交流に、時間を割くようになったと言う友達もいる。

その友達とは現在ほとんど交流を持っていない。理由は考えてる価値観や世界が違うのもある。

しかし本当の意味で繋がりがないとは言い切れない。それは昔送り合ったサインの証が消えているか・消えていないかにもよる。サインの証はなんかしらで消える事が多い。

 

それでもどうせなら適当(乱雑と言うよりちょうど良いと言う意味)にサインを色んな人に送ったほうが、楽しいような気がするし世界が広がる気がする。

サインを送った上で「助けてくれる人は数人」か「助けてくれる人が多い」かは別問題かもしれない。

冒頭の嫌われてる先生みたいに元々嫌われてたら、特に今の時代サインすら送れないから(送る気もないし)サインが送れてたら大半は「自分は嫌われてない」と言う意味である。

 

だから俺はとりあえず、ちゃんとした仲間が少ないと思っているのでまだ仲間が欲しい。