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常にクリエイターでいたいがアーティスト傾向が高い人間の考えまとめ。自分が読み返して、面白かったりタメになったりしていますように

『普通のやり方』と『尖ったやり方』と『普通のやり方』をしながら『尖ったやり方』

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https://www.photo-ac.com/main/detail/23379955

自分に才能があると仮定した場合、安易な言葉に逃げない方がいいとちょっと前から思っている。

花の写真を見てただ「綺麗ですね。」とだけコメントしたり、そう言うのも良いと思うがそれが9割など大半だったら、自分の感性を閉じてしまう事になるからだ。
前は自分が普通に言っているつもりのネット上の人への返しも、非難とか嫌味とかでなく「すごく独特だね」と言われてきた。
今もそう独特かもしれないが、自分から安易な言葉に逃げないと意識しないと段々自分が平凡の才能に成り下がっている気がする。
 
自分はWebライター業を始めて、普通の言葉使いや普通の文章を学ぶようになった。
そこから「自分の才能は無くなった」と悩むようになった。
理由は分からないし本当にWebライター業と関係あるかは不明だが、色んな理由を考察する中『普通を知った』とか『まとめるようになった』とか、シナリオライティングの書き方もそうだが『普通のやり方』をただ知るだけでは、自分が段々普通になると恐れている。
ネットにあった『才能は経験を経て枯れる』みたいな言葉にハッとし、
またある励ましもあって『自分は良い意味で尖りたい』と考えるようになった。
もちろん人に迷惑をかけるとがり方はしたくないし、それを考えない尖り方にはそりゃ自分自身にとって良いと思えない。
 
『普通のやり方』をただして、大金を儲ける人達がいると思うが俺はそう出来ないのだろう。
『普通のやり方』の方法が未熟だと指摘されて、修正して精度を高めてただ『普通のやり方』をしていくを繰り返すのも自分には耐えられないと思う。
はっきし言ってそれは人に『甘い』と言われるかもしれない。
『普通のやり方』に甘えず大金を得る事を俺はしたいので、その分甘さが浮きぼりになってしまうのだろう。
ただ俺は自分自身普通でない生き方を出生時からされてしまったようなものである。
それなのに奄美特有の狭い世界観に当てはまれ、『普通のやり方』を強要され自分の苦労している部分となっている。
 
そんな中私はWebライティングの仕事に応募しまくると言う、強要ではない方面の『普通のやり方』な方を何度もして結果が出ず、ストレスを抱えると言う日常を過ごしている。
 
普通に『普通のやり方』をしながら『普通でない』事をしたい。
正直お金が未だ入らない(それでも昔よりかは改善したが)『普通でない』事だけをし続けるのも大分疲れる。
 
そんなどこの世界でもありそうな事の、しかしそう考えたって自分自身の事は自分自身となりそうな事に、私はこの年と言う劣等感を異様に抱えてなぜか生きている。